ワン ステップ プログレス 

想いを描いて行動する   ~OSP 自己実現支援研究会~

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[今日のいっぷく] 日曜版




OSPブログ173号  (クリスマスローズ)        2015/4/26



先日、クリスマスローズガーデンに行ってきました。

見ごろとしては少し遅かったような気がしましたが、

それでも、多くの人が訪ねていましたので「間に合った!」

が実感でした。





クリスマスローズを見て感じたことがあります。




桜の花もそのようですが、クリスマスローズは下向きに咲いていますので、

花を愛でるには傾斜地の花壇で、下から見上げるのがアングルとしては

至当ではないかと思いました。




そういえば花には、上向きに咲くもの,下向きに咲くものなど、

光や方角などで多彩な咲き方をするようですが


クリスマスローズは上から見ると花より葉のほうが主張しているように見え、

私には下から見るのがベストと思えたのです。




桜の木は、下から見上げる機会が多いことから、余計なことを考える必要は

なさそうですが、花壇づくりは、単に花を植えればいいわけでもなく、

肥料をやれば良い訳でもない。

ましてや花も咲けばそれでいいという作り方はしていないと思うのです。




見る人にどこからどうみせるとより美しく、より感動的に鑑賞して

もらえるのかなど、配置や種類などに相当なご苦労をされていると思われます。






一方では、鑑賞の仕方にしても価値観は多様ですので、

管理者の思いもかけないアングルや、

色合いなどを選択する人がいるかもしれません。





管理者の意図とは異なる視点で鑑賞する方もいるかもしれないということです。




もちろん私のような「上っ面を愛でる鑑賞者」のために、鑑賞のポイントを示して、

ベストポジションを推測させてくれてはいます。




どちらにしても、陽の光、水の管理、肥料の選択など相当な気遣いをされて

仕上げているからこそ、見る人を感動させているのは事実だと思います。





そう考えながらも、これは花に限らず物の見方に共通するかも

しれないと思ったのです。






地域でも、国内でも、世界でも物事を見る価値観は多様です。




人は何事も自分の選択でものを見ようとします。




その選択で物事を判断したことの結果が、ときどき「こんなはずでは!」

と思う時もあります。




花の鑑賞に「絶対的視点がない」ことは、他のことにも通じること

なのかもしれません。





私は、クリスマスローズガーデンで学びました。





管理者は、自らの価値観で来訪者により美しい花を見ていただこうと

提案されています。





しかし、予期しない視点で花の美しさや特徴をとらえようとされる方

にも感謝していると思うのです





決して自分の提案した視点を絶対視しているのではなく、

それぞれの視点で美しいと思ってもらえることに大きな喜びを

感じていると想像するのです。




その証拠に、どこにも「この花は、このように見てください!」

などと指図がましいことは言っていないのです。




管理者は、自分の価値観での愛で方より、鑑賞する人誰もが、

その美しさをそれぞれの視点で発見してくれることを大きな喜びと

しているように思えるのです。





クリスマスローズを上から見て、「葉っぱだけか?」などという私がいても、

その葉っぱをほかの視点で鑑賞される方もおられるのだと思うと、

「お好きなように、花の価値を愛でてください。鑑賞のルールはありません」と

言われているようで、むしろ、



「花壇の管理者のどなたをも受け入れる大きな度量」が感じられ、

ただただ敬服してしまうのです。






最後までお読みいただきありがとうございました。






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[今日のいっぷく] 日曜版




OSPブログ172号(ミッションの力)         2015/4/18



私はTVでプロ野球をよく見ます。

先日、前に所属していたチームから戦力外の通告を受け、

今のチームに移籍したピッチャーが勝ち投手になった瞬間を見ました。




そのチームは私の贔屓のチームではなく、むしろアンチのチーム

だったのですが、今のチームに移籍してようやく得た登板の機会

で勝ち投手になれたのです。




試合終了後のインタビューで涙目を押さえながら絶句した時、

私はこれまでの苦しさがいかばかりであったろうと想像していました。




プロ野球の選手の「戦力外通告」は、サラリーマンのリストラと

重なったのです。





また、喉頭がんで声を失いながらも歌えなくなった歌手が

他の生きる道を探したり、肺がんを患いながらも10年以上活躍している

俳優を見ると、生命力の強さにうたれます。




プロ野球や俳優に限らず、また著名人であろうとなかろうと生きる

意欲には感動させられます。




以前、職場の上司が50代で生死をさまよいながらも、

その大病を克服して100歳近くまで生きられた方がおられます。




その方の死に際の言葉が「未だ死にたくない!」だったそうです


いろいろな人生があろうかと思います。




でもこれらの方々をみると、まさに人生に「明確な

ミッション」をお持ちであったからと推測するのです。





わが身を振り返ると、少しばかり意に反した障害にもすぐ行き詰まりを

感じたり、能力の不備にすぐ事をあきらめたりするのが日常です。




サラリーマン時代、「自分には何の取り柄もない」と思いながらも、

そのための対策など講じてきていないのですから、

自己管理、危機管理の不備といわれても一言もないのです。




「戦力外通告」を受けてなお、勝利投手を獲得したプロ野球選手

を見て、自分のミッションをもう一度考え直すチャンスをもらいました。





時折遭遇する挫折も、必要以上に大きく捉えたり、乗り越えるために

必要なのは何なのかを考えなければと再認識させられているのです。




ミッションこそ生きるエネルギーになりそうです。




最も、挫折を乗り越えても、同じ挫折を繰り返すことなどないよう

私にはもう一つ注意が必要です。




特に注意すべきは、せっかく挫折を乗り越えておきながら、

月日の経過で、その教訓を忘れることがあることです。

「落とし穴」です。





私に限らず著名人にもみられるようですが、涙目になりながらの勝ち投手も、

いつかそのことを忘れて、再度苦難の道に誘導される事があるということです。





時の経過で失敗を忘れてしまうのです。慢心してしまうのです。

特に周囲のチヤホヤが慢心させるということもありますが、

怖い「罠」である事を忘れてはならないと思っています。





いずれどなたも失敗の一度や二度はあるにしても

復活のチャンスも等しくあると思うのです





いずれ訪れるかもしれない復活のチャンスには、まさにミッションと

重ねたいとおもいます。




ミッションと慢心は相容れないと思っています。「生きたい、復活したい、

再起したい」と努力されておられる方々も、

「未だ死にたくない!」と言った私の上司の言葉もまさにミッションの力

を裏付けているように思えています。




「明確なミッションこそ、挫折を乗り越えるための最大の武器」、

そう思うことで、前に進めたらと思っています。





最後までお読みいただきありがとうございました。





| セルフマネジメント | 18:02 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[ 今日のいっぷく] 日曜版




OSPブログ171号  (「小さな幸せ」の価値)     2015/4/12



入学式の季節です。

昨年の春休み、小学6年と4年の孫と一緒にデズニーランドに行った時、

彼女達が「夢みたい!幸せ!」と目を輝かしていた顔を時々思い起こしては、

私も少し幸せな気持ちになっています。





飛行機で1時間とは言え、宿泊のホテルを予約しなければ現地で十分

遊べる時間をもつことが出来ない、地方在住の私達ですので、

当日の朝から相当な準備を余儀なくされたものでした。




いつもは別居の孫達ですので、私の家に遊びに来ても、

いかつい顔や態度の私に距離感を感じていたようでした。




「金は思い出のために使え」とばかりに、出来るだけ子供たちを旅行に

同伴させた舅を真似た私の行動だったのですが、

デズニーランドのおかげで、以来、少しばかり好感度を

上げることが出来たような気がしています。





ところで、子供に限らず大人であっても「幸せが何か」は

個々人の価値観で異なると思うのですが、

例えば他人がひたすら聞いてくれるだけでも心の安定を得て

幸せを感じる人もいます。




他人には「小さな幸せ」と思われる事であっても、

当人には「大きな幸せ」と感じることもあるということだと思います。




反対に権力者の座につけたなど、他人には「大きな幸せ」に思えることも、

当人には、「なってみればこんなもの!」とばかりに、

「小さな幸せ」にしか感じないこともあるかもしれません。





幸せの測り方には、様々な測り方があるのだろうと思います。

フランス詩人、ジュール・ルナールが、「幸福は幸福を探すこと」と言っていますが、

例え苦しい時でも「幸せになるため」と思えることで「幸せを感じる」人が

いるのかもしれませんし、


反対に「人は自分が幸福であることを知らないから不幸なのである」

(ヒュードル・ドストエフスキー・名言集COMより)と言われたのを聞くと、

幸せかどうかは結局本人の感じ方次第ということになりそうです。




幸せだの不幸せだのと私自身、数えきれないぐらい感じたり、

口にしたことがあることを思い起こすのですが、

その都度我ながら面倒な生き物だと思ってしまいます。




思った通りの人生などあるわけがないのに、必要以上の期待感や他人との

比較がそう思わせるのかもしれませんが、一つの幸せを得ても、

更にそれ以上の満足を得ようとするのですから、

何をもって幸せとするかの測り方も難しいということになります。





良く考えると、私達は日々、「小さな幸せ」は手に入れています。




小さく見えるか、大きく見えるかは本人次第ですが、その「小さな幸せ」の

積み重ねが更に大きな幸せになるのかもしれないと思うと、

「小さな幸せ」の価値を十分理解しておくことも大事なことと思えます。




馬齢を重ねております。

「足るを知るものは富む」との言葉を思い出します。





「満足を知る者は例え貧しくても心は豊かで、幸福であること」

(故事ことわざ辞典)との意味とされていますが、



日々の「小さな幸せ」を判ってこそ、大きな「幸せ」の価値も

分かる事になるのだとようやく思いあたっています。





最後までお読みいただきありがとうございました。





| セルフマネジメント | 17:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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[ 今日のいっぷく] 日曜版




OSPブログ170号   (大衆の罪)     2015/4/5



統一地方選挙が始まりました。

全国的な話題にすることで投票率が上がる事を期待した「統一地方選挙」

ですが、なかなか期待するほどの投票率にはならないようです。




むしろ選挙民は身近な地方議員より、TVや新聞に登場する国会議員に

関心があるのが実態だ(DOL特別レポート)とのことですが、

これをどう受け止めていいのか戸惑います。





一方、話題を呼んだ「号泣議員」だけでなく、

首長や地方議員の不正など資質の問題も多く浮上しています。




これを助長しているのが、「地方政治のなり手不足」

とも言われますが、今回の41都道府県議選と17政令市議選の

無投票当選の比率が過去最高の21.9%に上っている事に、

住民が一票を投じる機会を失う事だとして、

議会制民主主義のあり方を問題視している報道もあります。




その上、立候補者が少ないので給与を上げてはどうか、

と論議されている自治体もあると聞くと、

いったいどうなるのかと思ってしまいます





政府は投票率の向上も期待しながら、有権者を18歳に引き下げようと

していますが、これで万事オッケイとはいかないように思います。




TVや新聞で、国民の権利としての投票行動を呼びかけているのですが、

その効果も不透明のようです。




投票が有権者の意思表示だとすると、

今の選挙制度では自分の意思を表示できないと、

「白票に意味を持たせた選挙制度の検討はどうか

と主張した方いますが、案の定「民主主義と相容れない」と

お叱りを被っていました。




似たようなことかもしれませんが最近、少し無礼なのですが、

ならば議員となられた方々の政治能力向上の支援

をできないかと思うに至っています。




当選した方がいくら他の能力が優れていても、

政治経験や政治能力が十分だとは限らないように思うのです。




私達選挙民は、投票した後、

「あとは当選者達がうまくやってくれるだろう」と

人任せになりがちですが


ここが問題のような気がします。




一流大学を卒業した方が一流企業に入社したから一流の社員になれる

とは限らないのです。





議員の評価基準の測り方は、

彼らが「何を一番大事と考えて政治活動をしているか?」

に大きく関わりがあると思うのです。




有権者としては、その基準が「全体の利益に合致する適正な基準」か

どうかをシッカリ見極める必要があると思うのです。





その見極めのために、「何のためにどうしたいのか?」、

「その結果何を住民は得られるのか?」と、

議員に問い続けることで分かってくるように思えています。





抽象論ではなく、具体的に「その根拠」を明確に提示できる議員で

あってほしいと思うのです。




「この橋は私が造った」などと複数の議員が一つの政策を貢献として

アピールすることがあります。




その時「私はこの部分をやり遂げたのだ!」

と具体的に言える政治家であってほしいのです。





「大衆の罪」と言われた方を思い起こします。

政治家を正しく導けない民衆の罪も重いとも言われた気がします。




地方議員の政治能力を推し量るのはそんなに難しくないと思います。




要は有権者自身が「何が一番大事かの判断基準」を

キチンと持つことで、政治家を正しく評価出来ると思えるのです。





最後まで読みいただきありがとうございました。





| 時事問題 | 19:23 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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