ワン ステップ プログレス 

想いを描いて行動する   ~OSP 自己実現支援研究会~

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{ 今日のいっぷく}


OSPブログ139号  (トマトの皮が硬くなったワケ)       



畳3枚ほどのわが家の家庭菜園です。

トマト、胡瓜、茄子、モロヘイヤ、ツルムラサキなどを植えております。

農業の心得がない私です。土を入れて、苗を買い肥料と一緒に植えただけです。



水不足のため最初の苗を不毛にしたのですが、植え直した苗からそれぞれが

ようやく少しずつ実をつけているのです。これでも私の成果なのです。




トマト3個が採れました。なかなか熟しませんでしたが、ようやく赤くなったのです。


幸いカラスには気がつかれず、無事私達家族の口に新鮮が押し寄せると期待した

のです。


夕食の時、トマトを口に入れたのです。酸味があって果汁も十分、おいしいのです。



「どうだ!」。得意げに家族の顔を見て言おうとしたのですが、云えないのです。

口のなかのトマトの皮がその言葉を発することに抵抗を示したのです。

皮が硬いのです


スーパーで買うトマトより皮が硬いのです。飲み込むには自分の喉が許さないのです。



「どうしてだろう?」そう思いながらも、わが家での収穫です。

硬い皮を残しながらも家族全員笑顔で食事を終えたのです。




その後、菜園に詳しい友人にトマトの皮が何故硬いのか尋ねるチャンスがあった

のです。

特別な管理もせず、ただ植えただけのトマトの話を聞いて友人が言うのです。



「そのトマト、イヤイヤ成長したんだよ!」。

意味が分からないのです。



「野菜は旬を迎えると成長が早い。早く食べてくれと云わんばかりに短期間で実を

熟して収穫させようとするから、普通皮は柔らかい」と言うのです。要するに私の

場合、実はつけたのですが青いままの期間が長く、熟すのに時間がかかり過ぎた

ので皮が硬くなったと指摘しているのです。




「トマトだって実をつけなければ悪いと思って実はつけては見たものの、

イヤイヤ育ったということさ!」。
そう言うのです。




確かに私のトマトは、プロの方より相当遅れて収穫に至っているのです。

やはり、プロにはかなわないと思っていた私に、友人の追撃です。




「トマトだって毎日見届けてやらなければダメなんだ!」。

水、肥料、育て方など節目節目に何が必要なのか、いちいち求めていることを

分かってやることで、おいしいトマトになって食卓に参加しようとするんだよ。



「丁寧に扱われていないトマトは成長したくないのさ」。



難しい「トマト論」になるのです。



「人を育てることと同じだよ。子供であっても、部下であっても、成長過程で、

何が今必要で、どんな対処が求められるかなど、タイミングを見て必要な栄養

など与えてやらないと、たとえ頭が良くても人格形成に難のある人間が出来る

ときもある。



幼年期には何を、少年期にはどんなふうになど、育て方の学びが不十分なまま

育てても、大した人間には育たない!トマトだって人間だって同じだよ!」。




私の耳は痛いのです。いちいち身に覚えがあるのです。




「結局、育てる人の「覚悟」がおいしいトマトを作れるかどうかを決めるのさ!」



「まだまだ学びが足りない!」、そう思わされた友人の言葉でした。感謝です。




最後までお読みいただきありがとうございました。







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{今日のいっぷく}

OSPブログ138号  (1つの問に10の答えは要らない)          


「一を聞いて十を知る」という諺があります。



少し聞いただけで、全体のことを理解するという賢者を意味している事のようですが、

日常生活でも、「伝え手の言葉足らずや、説明不足」を聞き手が補足して理解して

くれた時、物事の運びも効果的に進めることにもなりますので、伝え手としては大変

助かりますし、聞き手を頼もしく思えることにもなります。





こういう方の中には、言動までも俊敏な対応をされることもあるのですが、

何事も「過ぎたるは及ばざるがごとし」、やり過ぎると、「目から鼻」と云われて

周囲から疎外されることもあるようですので、人間社会も「ほどほどが大事」

と云うことになるのでしょうか。





ところで、私は時々家族から強く指摘される事があります。

家族の誰かが私に何かを質問するときのことです。





私はその質問に関連して長々と説明したり、答えたりしているようなのです。




先日も、あることを質問されたのです。答えている私に、


「くどい!」、

「そこまで聞いていない!」、

「聞いていることだけ答えてくれればいい!」



などの苦情の後、ついには



「一つ聞くと、聞いてもいない十まで説明しようとする!」


と追い打ちです。





「丁寧に答えているのに何を云うか!」、



返すのがやっとの私に、



「外でも同じじゃないの?相手にうんざりされていないか心配になる!」



といわれ、「ハッ」とさせられたのです。






私は、地方公務員でした。



公務員の「イロハ」として他人には「優しく丁寧な説明」に努めるよう指導されます


ので、「一種の職業病かな?」とつぶやいた瞬間、「どっこい!」です。




そんな私に「職業病などで片付けるな!」と云わんばかりのバッシングがはじまる

のです。





家族は言うのです。


「聞き手が予備知識を持たない複雑な場合と、簡単な答えを求めて質問している時

とでは事情が違う。




聞き手の状況、問いかけの内容を把握しないまま、求めない事までの多弁は、



聴き手に「聞かなければよかった!と後悔させる」ことになる




「第一、聞き手は既に何も聞いていないし、伝え手の説明能力まで疑うこと

になる」というのです




思い当たるのです。





「分かった!わかった!」とか、


「聴き手の話題変更のための言動」などを思い起こすと、



「あのときがそうだったのか」と思い起こすのです。




自分の姿・形を知るためには、鏡やビデオ、写真などが有効なツールと言われますが、

自己本位で生きてきた私は、了見の狭さも手伝い、他人の受け止め方に真摯に向き

合っていなかったのかもしれません。





「家庭内での「立ち位置」を気にしている場合ではない!」。

「自分を変えたい!」。





私は勇気を出して家族にお願いしたのです。




「くどい説明」に限らず、

「姿・かたち」に至るまで、

出来るだけ他人を不快にさせないよう、

その都度の「注意喚起」をお願いしたのです。





もっとも、家族に感謝しながらも、感情や非難など「感想」ではなく、

「眉間にしわ!」とか「話が長い!」など

「事実の指摘」から始めてもらうことにしたのですから


残念ながら私の「了見」もまだまだのようですが・・・。





最後までお読みいただきありがとうございました





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{ 今日のいっぷく }

OSPブログ137号 (続けるための 「究極の決め手」 )       




 私の住む地域では、昔のような賑わいではないのですが、それでも8月になると

未だ地域の交流や活性化を兼ねて、盆踊りが開催されるところがあります。



盆踊りは昔から祖先との交流など地域文化を反映したものでもあるのですが、同時に

住民も楽しみにしている催しでもあったのです。


お囃子、太鼓、歌声に合わせて輪になって踊る盆踊りに屋台も加わり、子供から大人

まで多くの人たちが喜んで参加していました。



今でも全国には芸術とさえ感じさせる優れた盆踊りが継承され、多くの観光客を呼び

込み、以前より賑やかさを創出している地域さえあるのは、それ自体魅力があるから

だと思います。




私の知り合いに、60歳を超えた女性ですが、見事な舞いをされる方が

おられます。




腰の動きから手足の表情などは云うに及ばず身体全体の動きで、舞踊音痴の私に、

「まさに芸術」、と思わせるほどの感動を与えてくれるのです。



ご本人に踊り始めた時期をお尋ねしたところ、「2歳から」というご返事です。


この時期になると、60歳過ぎた今でもいつもより、なお一層の練習量を重ねていると

いうことですので、60有余年の蓄積だということになります




この長い年月続けてこられた理由をお聞きしたところ、「好きだから」の

お答えには、愚問であったと反省させられたものでした。





踊る姿を拝見していても、大変楽しそうにしておりますので、私も得心がいったのです。




このご婦人、他人を楽しませたり、感動を与えたりして、称賛の言葉をもらえることも

多いようですので、なお一層の励みにもなっているように見えます。




「好きだからこその、60有余年」。

これは私に重みのある言葉として胸にひびいております。





実はこの方、1年前から太極拳にも取り組んでおられます。

練習は盆踊りと同じように熱心なのですが、なかなか思うように上達していないことに

ご不満のようです。




当然ご本人も盆踊りは60有余年、太極拳は約1年の歴史では論を同じくすることは

出来ないことを十分承知しているのです。


でも前向きの気持ちが更に力になるのだとご本人も心得ているのです。




一般的に、一つの事に秀でた方は、他の事も極められると言われますので、この方も

ご自分の盆踊りの成功例を太極拳に重ねておられるかもしれないと思うと、

それ自体、「極め」のノウハウと言えるのかもしれないと思うのです。





私のようにあれこれ着手しても、秀でたものを一つも得ていない現実を考えると

「まずは、ひとつのことを極める」ことがいかに大事なのかを思い知らされた

気持ちです。





それがいつか人を感動させる力になるとすればなお、挑戦する値として大きな意味を

持っていることになると思うのです。





「太極拳の大成も十分可能」とのあたしの言葉に、返ってきた言葉は、

「続けられればね!」でした。



その時私は彼女の「好きだから!」の言葉を同時に思い起こしていたのです。





何かを極めるということは、「好きであることを継続することが極意」と改めて

思い起こさせられたのですが、




「好きである」とは、「どんな風に好きなのか?」の深堀こそが

「究極の決め手」になると気付かされております。





最後までお読みいただきありがとうございました。






| セルフマネジメント | 16:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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{ ほっと 一息 }



OSPブログ136号 (墓参り)               


祖先の霊を祀るお盆です。お墓参りで先祖と対話される方々も多いと思います。

私も毎年お盆には墓参りをするのですが、こころ穏やかな気持ちになれるから

不思議です。



「歴史に学べ」、「偉人に学べ」、「親の意見と茄の花は千に1つも仇はない」など、

子供のころから教えられてきた数々の言葉を思い起こします。




過去から学ぶということは、幾度となく類似の事象の再現により、原因・結果と云う、

普遍と云える因果関係の存在を実証できたという証かもしれません。




現在または将来への安全で確かな対応を模索するとき、適切な対処法と

なることを示唆しているということだと思います。




一方で「歴史は繰り返される」との言葉もあります。



困ったことに最近の受け入れがたい数々の社会現象を見ると、まだ「過去から学べと

言えるまで昇華出来ていない」のではないかと思われる問題も多いように思います。




墓参りは、個人の過去と向き合う機会にもなります。




人それぞれの人生で、自分の過去に学んで大成されておられる方も多くおられると

思います。



しかし、私のように時折「過去から脱出」できずに、もがいている人もおられるかもしれ

ません。




お墓で手を合わせながら、自分の過去の失敗を悔いながらも、将来を見据えた言葉の

自問自答で祖先とも対話するのですから、先祖たちも呆れているかもしれません。




しかしここ数年の墓参りでは、どのような結果に遭遇しても、失敗と思うのか、学びと

思うのかは「私の頭の中だけの問題」だと思うようになっています。




いわばポジティブ思考を取り入れて、「失敗」のホルダーから「学び」ホルダーに移行

することで、過去から学ぶということになると気づいたのです。





同時に物事の視点が、いつも自分の経験値に基づいた基準や先入観で見たり、

聞いたり、考えているなど、勝手な自分であることにも気づかされているのです。




要は、過去の経験則での思考では、原因には、結果が決まっており、

決まった結果を求めるときには安堵感があり、一般的な物事への適切処置とされる

ことになると思うのです。





しかし、人は様々の事態に遭遇します。苦しみ、悩みもがいているときは、経験則だけ

では、「世界を広げたり豊かな気持ちを持ちたい」と思う心に呼応して、

「新たな世界や発想に向かう」ことが難しい時もあるように思います。






場合によっては「過去を切り捨てて、新たな道に進む勇気」も必要なのかも

しれないと思っています。




「新たな柔軟思考」は、「新たな世界に導いてくれる」ように思っています。






今年の墓参りは、これをテーマに先祖との対話に向かおうとしている私です。






最後までお読みいただきありがとうございました。

| セルフマネジメント | 17:32 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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{  今日のいっぷく }


OSPブログ135号 (こんな筈ではなかったに!)    



 先日、子供の教育に寄与しているとされる企業から、子供の個人情報が流出された

とする事件が大きく報道されました。



既に逮捕者が出ておりますので、司法の対処に移行しておりますが、同時に国民の

情報管理への関心が高まったとも云えるかもしれません。



また昨日のことですが、駅前を歩いていると、いつものように国政など公的なものから、

福祉や人道支援など様々な分野の街頭署名のお願いを訴えている方々にお会いしま

した。



世の中の不備がまだまだ、多く存在するということだろうと思います。



主催者には、NPOなどの主導で活動されておられる場合もあるのですが、個人情報

提供への懸念も手伝い、素通りする人たちも多く見受けられたように思います。



数十年前には、街頭や学校、町内会などの署名活動に何の疑念も無く住所、氏名、

家族構成な平気で記載していた時代があります。



そんな時代を経験した高齢者たちの危機管理の希薄に乗じて、オレオレ詐欺の果て

まで押し掛ける時代ですので油断も隙もないということになります。



自らの意思で提供していない自分の情報を他人が取得している現象は、決して気持ち

のいいものではないことは当たり前のことだろうと思います。




一方私達には、得たいと思う情報もあります。



世界では、最近のマレーシア航空機の撃墜、イスラエルの戦闘など、情報戦争の有無

をも報じられていることについてどう頭を整理して良いのか戸惑うのですが、政府が

まとめた特定秘密保護法の運用素案に対して、情報開示をしないのは「知る権利」を

侵害しているとの議論などについては、民主主義国家の国民としては、


「得たいと思う情報」の一つとして理解できる範囲と思います。



どなたでも、必要な情報は得たいと思うのですが、厄介なのは好むと好まざるに関わら

ず、不用と思う人にまで「あらゆる媒体」を通して

押し寄せてくる「情報過多」の現状です。




情報は各人の行動を速やかに達成するために、提供したり、収集しようとするのですが、

特に収集の場合、必ずしも「正しい情報」「適切な情報」とは限らない場合もあるよう

です。



いわば、根拠のない巷の「風聞レベルの情報」までが押し寄せてくることさえ

あるのです。




勿論受け取る者にとっては、求めに応じた、「有益情報」であることが望ましいのです

が、そもそも入ってくる情報が、適切かどうかの判断は受け取る側の「選択」

に任されています。




場合によっては、「いたずらに心を乱されたり」、ついには「無造作な情報の

採用により、求めていない現実に直面させられたりする」ことを想定すると、

「発信するにも収集するにも」、的確な行動であるための「判断力と決断力」を、

培う必要があるということになりそうです。




面倒な世の中と云えばそれまでですが、情報氾濫のこの時代、「選択能力と管理

能力」の有無が、各人の人生に大きく影響する場合もあるのではないかと懸念して

しまいます。



せめて、今私に出来ること、

「こんな筈ではなかった」と云わないために




早速書店に赴き「情報管理に適切」と思われる、「間違いのない本探し」

から始めようかと思うのです。





最後までお読みいただきありがとうございました。





| セルフマネジメント | 19:56 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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