ワン ステップ プログレス 

想いを描いて行動する   ~OSP 自己実現支援研究会~

2013年11月 | ARCHIVE-SELECT | 2014年01月

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「メタボの歓喜」

OSPブログ104号(メタボの歓喜 )            


私のメタボリック症候群が歓喜の声を上げています。クリスマスにはケーキの贈り物、

そしてあの会・この会の忘年会、更には正月の料理を想像させる巷のせわしなさですので

メタボの期待感は半端ではないのです。


お腹のメタボは「危機」ではなく「嬉々」としているのです。


今年もいよいよ残すところ2日になりました。昨日が最後の忘年会でした。出てきた料理は

完食です。

 ここ数年、医師にはコレステロールが高いの、中性脂肪がどうのと、注意喚起されている

のですが、この時期「已むをえない」と自分に気合を入れてきました。

勿論気合いの入れるところがここでないことは分かっているのですが、お腹の歓迎度合いが

尋常ではないのですから始末が悪いのです。


ついにはパンツ達から穿くことを拒否されることになり、結果、年々ウエストの大きめの

パンツを買いに行くことになっているのです。



お腹は大きくなりますが、私の財布は薄くなるのです。それほどリスクを負う必要もない

と思いながらも、「日本経済の発展に寄与」とばかりに命がけになっているのです。


当然「節制」という言葉は私の辞書から消えます。


国家でも企業でも家庭であっても、「無駄を省く」のが健全運営の基本とされるのですが、

私のメタボはこの理念を理解していないようです。



先日ある忘年会で昔から体型がほとんど変わらない友人と同席しました。彼の体型はマラソン

選手のようにスリムでありながら、山登りとか、ジム通い、自転車などを趣味としているから

でしょうか、相当な体力も持ち合わせているのです。


メタボの私は身体が重く、ジャンプはおろか、スキップもままならないのですが、その友人は

毎日体重計に乗って500グラムも増えようものなら、「とても許せない」とジム通いの回数

を増やしたり、走り込んだりしているようです。


常に適正とする体重を維持しているのです。私とは真逆の生活習慣です。


友人の健康管理はスポーツ選手並みに思えるのです。私はスポーツ選手を自分と違う種類の

人間と決めつけていました。

でも友人と会って健康管理の行き届いている方はスポーツ選手に限らないことを知りました。


忘年会での彼は私達と同じく出された料理をおいしそうに完食しているのですからなおさら

感服してしまうのです。



彼は云うのです。食べ物は「おいしく食べることを旨」としなければならない。


そのためには十分腹をすかしておく必要がある。

喉がカラカラになった時に飲む水にはどんなものも敵わない。

「おいしく食べるコツ」は、「適度な量」の食事で賄い、「次の食事の時には出来るだけ

空腹の状態にしておくことが重要
」というのです。


このことが「食べる」という意味だというのです。

誰でもが分かってはいるのですが、ただ忘れがちになるのです。



この言葉で、私も食生活の見直しが必要と思いましたが、それより「自分を律する」

彼の姿勢に感心しました。



まさにセルフマネジメントですが、私も来年こそは大きめのパンツを買いに行かなくても

いいように「体重管理と自制力の強化」に努めなければならないと決意を新たにしている

ところです。
       



最後までお読みいただきありがとうございました。














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| セルフマネジメント | 17:54 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「みかん+α」

OSPブログ103号(ミカン+α)               


 先日静岡の友人からおいしい「ミカン」が送られてきました。少し前にこちらから

「リンゴ」を送ったばかりですので、随分早いお返しだと思いました。


 例年「ミカン」が先で「リンゴ」が後になるので、今年こそは「リンゴが先になるよう」

私は頑張ったのです。

 しかし彼のハガキで知りました。私のリンゴ送付のアクションより彼の「ミカン」発注の

時期がはるかに速く、結局は私の方が遅れをとっていたのです。



 12月も20日を過ぎました。今の時期、リンゴとミカンのやりとりは30年を超えています。


私が友人と初めて会ったのは、東京の研修所でした。私は地方公務員でした。全国から同じ

職務に従事する担当者達の30日間研修の宿舎で同室になったのが最初の出会いです。


 その時、彼は私に大きなインパクトを与えました。3つ年上でしたが、背丈は私より頭一つ

大きく、筋肉質でしたので私とは正反対の体型でした。


さらに、当時公務員の多くがそうだったように、私の7・3分けの頭髪とは違い、髪は五分

刈り、風体は当時としてはおよそ役人らしくない、いわば「くだけてる」服装でした。

 その上言葉遣いはまさに「べらんめー」でしたので、さすが「次郎長出身の静岡県」と変な

ところで感心したものでした。

同時に田舎育ちで内気な私はそんな彼と30日間同室でやっていけるだろうかと、少し不安に

なったものです。


 しかし、その不安はすぐに消えました。私に対する気遣いが一生懸命なだけでなく、誰に

対しても躊躇なく受け入れる度量がありました。


 研修にも大変熱心で、レポート提出に際しても私は随分助けられたものです。

「思い込み評価は厳禁」、に気付かされました。


 そんな彼との研修も、特に六本木が近いせいもあり、平日は宿舎で、土・日は六本木でと夜毎

酒宴を繰り広げながらの交流が良い思い出となっています。



もっとも時折妻に、「金送れ」の電報を打たなければならなかった時だけは複雑な気持ちには

なったのですが・・。



 以来、「リンゴとミカン」のやりとりをしてきたのですが、研修後は一度だけしか彼と会っていない

のです。

 
 それでも「リンゴとミカン」のやりとりだけは続いています。この「リンゴとミカン」は古来からの

風習でのお歳暮の感覚が私にはありません。


お互い「元気だよ!」と挨拶しているようなものです。


 彼の奥様は大分前に自宅での要介護になっています。掃除・洗濯・食事に介護と大変な

毎日になっています。


 
 にもかかわらず、葉書には「早生のミカンは腐りが早いので今年は奥手のミカンにしましたので

送るのが遅くなりました」との最後の言葉です。

 
 
ミカンを買おうと思えば私にも買えます。

しかし送られてくる「ミカン」には友人の気持ち、「+α」が込められています。

 なかなか会えない友人ですが、失いたくない友人です。



 今、幸せをかみしめながら「みかん」を食べています。




最後までお読みいただきありがとうございました。





| 信頼構築 | 16:50 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「差別」の形

OSPブログ102号(「差別」の形)           2013/12/15


12月5日、「人種融和」を訴え、内戦を回避した「マンデラ」氏が亡くなり、世界

中の人々が死を悼んでおります。


27年という長い年月、「アパルトヘイト」の下、白人集団による黒人弾圧により

獄中生活を強いられたにも関わらず、解放された後も、自らと黒人たちの白人への

憎しみを超えて「人種融和」に導いたマンデラ氏の功績はあまりに有名ですが、

自由平和に向けた彼の功績は計り知れなく、ノーベル賞も当然のこととどなたにも

受け止めておられるのではないでしょうか。



マンデラ氏の訃報を機に、「人種差別問題」ほど大きくはないにしても、

自分たちが作り上げた「差別」はなかったかと
、今、これまでを振り返

っています。



「差別する人」は「差別される人」程重大なことと受け止めていないと同じように、

人が人を評価することを安易に行動していなかったかと考えてしまうのです。




「評価」と「差別」の概念には違いがありますが、時折「評価が差別となって顕在化」

することがありますので気になりだしたのです。




評価の基準は多種多様にあります。時折、一事を万事にして一面だけの評価で、

「全人格を評価」するような事象が一般社会でも見受けられますが、良し悪しの

いずれであっても当事者にとっては人生を左右することにまで発展する事例にも

なります。



たとえば、時折、身近の小さな世界であっても、上位者の下位者に対する「低い評価」

を「周囲の者も同調」するなどして、「差別的扱い」にまで発展させたりする事例を

目にすることがあります。



「評価」と「差別」との意味については、広辞苑によりますと、

「評価」とは善悪・美醜・優劣などの価値を判じ定めること。

「差別」とは正当な理由なく劣ったものとして不当に扱うこと。

などの意味があるとしています。



マンデラ氏に感動したり、貢献をたたえるのなら、「讃えるだけなら○○でも出来る」

などとならないよう、小さなことでも自分ができる行動として、せめて周囲に「差別に

類するもの」がないかの再検証してみるのも意味のあることではないかと思えています。



氏の理想の実現には、大きな力を必要としますが、「人種差別」に限らず、「差別的

扱い」については、手を貸すことなどないよう、せめて身近なところで自分でも貢献

できる機会があるかもしれないと思うのです。



氏も始めは、一人ひとりの説得からの始まりではなかったかと推測できます。



人を讃えることが出来るなら、「自分にもできる何かがある」かもしれない。

そう考えると自分の人生をもう少し有意義なものに構築出来るかもしれないと思っています。



マンデラ氏の、「決してあきらめない!」は、私達に勇気を与えてくれたと感謝しています。




   最後までお読みいただきありがとうございました。



| 価値観 | 17:11 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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戸惑いのイタリア

OSPブログ101号(戸惑いのイタリア旅行)           2013/12/8


先日イタリア旅行をしてきました。3回目のイタリアですが、30年で3回ですので、初めて

のイタリア訪問と言っても過言ではないのです。

今回はこれまでの行き当たりばったりの旅と違い、ツアーでしたので添乗員の方の丁寧な

説明を聞くことができ、大変勉強になりました。


今回もまた重く心に響いたのが、映画やテレビで馴染みがあるにしても、「百聞は一見に

如かず」、やはり歴史です。



学校では劣等性に属する私でしたので、歴史も不勉強のままですが、ローマ、ベネティア、

フィレンチェ、ナポリ、ポンペイと廻るごとに、住居、劇場、公衆浴場、道路、上下水道、

壁画、モザイクなど、いまさらながら2千年以上前にこんなインフラ整備も含めた町が出来

たのかと思うとその迫力に声も出なくなるのは多分私だけではないと思います。



日程も中盤になったころです。遺跡、文化に触れながら、イタリアの素晴らしさや、歴史的

価値を説明していた添乗員が言った一言に「ウーン」と言葉を飲み込みました。


街を走るバスの中です。イタリア国内の社会、政治、経済の諸課題を指摘しながらの言葉です。


「イタリア人は2千年以上前に『才能を使い果たしてしまった』 のです」。


勿論添乗員の冗談ではあるのですが、こよなく愛するイタリアであるが故に、つい吐露した言葉

であったろうと思います。


要は、遥か2千年以上前にこれだけの知恵と文化を持っていて、そのまま進化し続けていれば、

今頃はもっともっと発展していただろうと言いたかったのだと思います。


私はこの言葉から大事なことを学んだような気がしております。


それは「日本にとっても他人事ではない。【判断の過ちや、怠慢】に因っては、進歩を止める

か、後退させることにもなる」と云われた気がしたのです。




私は添乗員に質問しました。「イタリア人と日本人で、価値観の大きな違いは何だと思いますか?」、

即答でした。「イタリア人の方が家族を大事にすると思います。イタリアではオレ・オレ詐欺は

成立しません。日常のコミュニケーションで家族はすぐ判るからです。

日本人は自分の家族がわからないということでしょう?」・・そう言うのです。


真偽は定かではありませんが、これも私に、「ん?」と考えさせられる言葉でもありました。


少し頭が混乱し始めました。更には、「イタリアで自販機が無いのは、泥棒が『物と金の両方』

を一挙に手に入れられるから」とか、「新聞配達人はいない、ポストの新聞はすぐ無くなるから」

とか冗談にしてもこんな話を聞くと、国の成り立ちや、構成する国民の有りようをどう考えていい

のか私の頭はまさにパニック状態になるのでした。



結局いかなる国の歴史も大変奥深いことで、一言で言うなど所詮無理なことと今更ながら

知った次第です。



帰ってからの私の頭は未だに整理出来ず、もうしばらく時間を必要としております。




最後までお読みいただきありがとうございました。




| 価値観 | 18:15 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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「ハンカチ」

おかげさまでブログ100号を迎えることが出来ました。ご覧いただき感謝いたします。


OSPブログ100号(ハンカチ)              


お聞きします。貴方は外出の時「ハンカチ」をお持ちになりますか?


先日、ボンヤリテレビを見ていましたら、シンガポールが出てきました。約40年前に

訪問したことがある国でしたが、ほとんど記憶がありません。


ただ、当時から街にはごみが落ちてない綺麗な街並みであったことだけは覚えているのです。


現地のガイドから「ゴミやたばこの吸い殻のポイ捨て」は罰金を科されると聞いてその

見識の高さに敬服したのでした。


ところでテレビです。予期しない報道に驚きました。シンガポールの国民は誰も「ハンカチ」

を持ち歩かないと言っているのです。


丁寧に手洗いの利用者にまでインタビューしていたキャスターに、「手は洗うけど、

拭かない」と答えるのです。


手は自然乾燥かティシュで賄うというのです。手は濡れっぱなしです。

時々パンツに拭いたりしています。


多分平均的な日本人から見ると、「汚い」と映るのではないでしょうか。


ところが彼等は、ハンカチを持たない理由として異口同音、「ハンカチは汚い」という

のです。




「大発見」でした。考えてみると、日本人の多くはハンカチを持ち歩いています。

汗を拭きますし手洗いでも使います。普通同じハンカチを使います。


最近手洗いに乾燥機が普及してきましたが、まだまだ設置されている場所は少ないのです。



考えてみると、その都度使用される「ハンカチ」を汚いというシンガポールの国民の価値観に

「なるほど」とも思わされるのです。



「上品な振る舞い」をある意味象徴していると思っていた「ハンカチ」への思いが一気に崩れて

しまいました




「文化と価値観」、考えさせられます。




更に今朝のラジオです。本の紹介をしておりました。



心理学者の本の紹介のようでしたが、3歳児までの育て方について、従来の

「母親が育てるのがベスト」というのは「神話である」と疑問を提起しているのです。



最近育児放棄の母親が時々報道されますが、いかなる母親に育てられても、3歳を超えての

適切な育児で、正常な成人に育成出来ることが実証されているというのです。
 

 
たまたまでしたが、これら二つの事例だけでも考えさせられます。

私達は日常何を持って是非を論じているのだろうと思ってしまうのです。



ハンカチの件では邪念を持って考えると、単なる「見た目重視」の文化とも言えますし、

幼児教育については、心理学者の主張を鵜呑みにしていたかもしれないのです。



「根拠の希薄な主張」にはいたずらに迎合すべきでないことを示唆しているのかもしれません。



こんな事例は周囲には数多くあるかもしれません。



これからは「確かのもの」の吟味が大事と、今更ながらではありますが考え始めているところです。
  



 最後までお読みいただきありがとうございました。

| 価値観 | 16:14 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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